文の量で人が殺せるか?

99件.....(笑)

『「ルイーダの酒場へようこそ。あら、せんしさんいらっしゃい。旅の仲間をお探しかしら?」せんしさんは、せんしさん以外の職業の方が良いのよね?ちょうど、ぶとうか4人のパーティからはぐれた人が居るわよ。「やあ、せんしさん。たまには違う職種の人とパーティが組みたくてね」』

こんにちわ。tukinohaさんは、自分と似ていない視点をご希望ですか?私もオタク同士のジャーゴンでの会話が大好きな人間ですが、ちょっと幼年性を脱却する事を目指している人とも会話してみたいと考えましてね。

『ぶとうかは言う。「君は一目見て私がぶとうかだと分かったのかい?ならば見る目があるな。よし、ぶとうかの極意お教えしましょう!!」せんしは思った。一体誰が説明を頼んだのだろう?』
私が、"収集癖"タイプのオタクだと見抜いたのならば、まさしくその通りですね。そのうち何がどう楽しいのか、その内面をお教えしますよ。(聞いてねぇよ)

『せんしは尋ねた。「最近ぶとうか連中は、いい武器ない?とばっかり聞いてくるけど、あれは何かの流行かい?」
ぶとうかは答える。「むかしは、武器の選択肢は黄金の爪と破壊の鉄球しかなかった。なぜもっと武器がないのかと感じていた。まぁ、ぶとうかにとって、闘いとは素手で攻撃をする事、武器など手の延長でしかなかったのだ。」
「ところが、ドラクエオンラインがサービス始まって、アイテム課金制度が実装されると、まるで古今東西の武器の要素を組替えてバリエーションを無限に作ったかのように、大量の武器があふれてしまった。」「正直、思うのだよ。何度も死にながら、一人で黄金の爪を取りに行った時ほどの情熱をもって、現バージョンで最強武器を取るまで経験値稼ぎが出来るものだろうかと。」「ここに来て初めて、せんしが武器を沢山持ち歩いていた不便さが理解出来たよ。そして、トルネコのありがたさが。」』

むかし(1998年)は、興味のあるアニメを全て録画していた。アニメなんてものは、全部見る分量しかないもの、無条件に気をぬいて楽しむ娯楽品だった。何故、大手を振ってアニメを見れないのかと感じていた。ところが、2003年にはリアルタイムでアニメを追いかける事をやめてしまって、"後で見よう"たまり始めた。2007年頃には、「全てのラノベとコミックが、アニメ化され、フィギュア化されて居る」と感じるほどに、"量"が多くなった。人なんて勝手なものです。いつも無い物ばかり求めている。一体どう言う状態になれば満足出来るのでしょう。本なんて絶対に全部読めない。本の批評や紹介って意味があるのか?と感じつづけて来ました。
けど、「あっ、何だか女の子がカワイイな。」と目に止まって興味を引く程度に、「自分好みな"筈"のキャラクター」が、"飽和"しているんです。玉石混合。アニメもブログも。
正直、今って、「ジャンプが落ちてて、隅っこのマキバオーが絵汚くて気に入らないけど、何か読んじゃったよ。5年くらい経ってまた読んでみたらアツい内容だったんだな」みたいな時代じゃないですよ。これは、ジョンレノンの子供症候群みたいな?
(ジョン・レノンは、次々と玩具を欲しがる息子に、ある日おもちゃ屋いっぱいの玩具を一度に買い与えたそうです。)

『ぶとうかは言った。「この辺にはぐれメタルは出ないと思っていた。」「穴場発見じゃないか?」』
こんな事を言っては死刑なんですが、正直初めは千尋の事を、「眼帯・傷心・サイコな彼女」の組み合せから生成したキャラだと見なしていました。ところが、見ると悲しすぎて、健気すぎるのです。何故悲しいのか分からない。どう悲しいのか分からない。
あずまんが大王で、ヨミが「あー、勉強をしたらシュークリーム分が足りなくなってきた。これはシュークリームを食べて補給しなければ。」みたいな事言いますが、居ても経っても要られず、千尋分を補充の為、禁を破ってブログ巡りをしてしたり、初めてニコニコに投稿してみたり...

『ぶとうかは言った。「たたかいの基本ってのはね。心の中に自らの攻撃をイメージする事なんだ。」「良い戦いとは美しく打撃を決める事だ。」 』

アニメと言うのは自らの心を移す鏡の面があると思うのですね。アニメを見ても、その世界で実際に起こった出来事を体験していると言う感覚しか浮かんで来ないんです。製作者なんて、"額縁"を作っただけです。それがどの程度歪んでいるかが出来栄えで、そのガラスをどれだけ曇りなく磨くかに一生をかけるんだ。、と。

『とうとうと語るぶとうかは、いつも列の先頭に立ち、敵の攻撃を受け止めて戦い抜いているせんしの隠れた努力に目が行っていないのでした。』
文学的解釈とか、言葉の厳密な哲学的定義と言うものも大切ではありますよね。
恐らくtukinohaさんやepsomさんはそういう哲学畑を短くとも2-3年は、"正当に学習"してるんじゃないですかね?

『せんしは防具のていれを怠りません。だっていのちを守ってくれるのですから』
哲学者や文学者、作家は言葉を大切にします。だってそれを使って意思を伝えるのだから。
『ぶとうかは防具なんかに気を払いません。だって、攻撃なんて食らわないんですから。』
物理学者や、数学者は日本語を大事にしません。意味を伝えさせるのはそこじゃないですから。
文字よりも大切なものにイメージや図形や数式があります。数学の集合の定義には、「要素をただ羅列する」物もありますし。

『せんしがぼうぎょや防具の手入れも大切だと言うのを聞いてもっともだと思ったので、ぶとうかは、攻撃をよけずに戦って見る事にしました。あっと言う間に死んでしまったぶとうかは、教会でいいます。「もう、戦士の真似はしねぇ」』

"馬から落馬"系の話全部読みました。もう、"脳みそ研磨剤"でした。自分定義と言う言葉の自己崩壊性とか流れを理解しきるまでに、5時間頭を抱えて転がりまわって。ちょっと、「普通の人には無理」な域での日本語を使っていると感じましたね。まぁ、謙虚に漢字の読み方から尋ねて行きたいと思います。笑

『むかし、せんしとぶとうかが戦ってみた。
せんしは言う。「君の体力ではそれ以上続ければ、時間の問題だ。」
ぶとうかは言う。「さっきの一撃を私が止めなければ終わりだった。」』

正直、最初はtukinohaさんの言動を分析して、"信用出来る"と判断したからには、"ネット炎上"の相手は間違った事を言っているはずだと、最初思っていました。しかし、skerenmiさんの考えも別に間違ってないんですね。

例えば、「何だか無人駅ってロマンがありますよねー。私好きだなぁ。多分無人駅が取り壊されずに残ってるのは、夜中にこっそり999が降りて来るからに違いないんですよ。
電車が来ないからこそ、こう..."来ないモノ"が来そう?な気がする? レンジの気持ち分かるなぁ。2話で、駅で小説読んでるシーンに、列車のレールとか出てきますよね。あれは空想って事かな?」って言う私の喋り方には、つっこみ所が色々あるわけです。
(あんな駅に、"電"車が来るだろうかとか)


『せんしは言った。「すまないね。面倒だったので、ケガをさせないよう、"本気の手加減"が出来なかったよ。」 ぶとうかは言った。「どれほど早く相手を殺すかが本気だろう? 分かり合いたいなら素手で戦うべきだった。」』
哲学用語を一気にぶつけて喋るって言うのは、まるで自らの持つ"概念武装"をフルに使用した、本気の完全戦闘状態で言い合いをしているように感じます。

『ぶとうかは言った。「ちなみに私は昔、あそびにんをやってて賢者にまでなった事があってね。」「ザキは要るよ。やっぱり。」』
ちなみに私は、昔ネットで大論戦を繰り広げて、色々と"経験則"を得ています。まず、掲示板ではまず無理ですね。せめてチャットじゃないと。で、私は掲示板でやってるので既に"戦略的敗北"なのですが...今回の"99件"な書き込みを見れば分かるように、留守番電話にメッセージを入れつづけるように、片側が一方的に大量の文章を書き込めてしまう事が、コミュニケーションに齟齬を来たさせます。
(でも、書かなきゃ伝わらないしなぁ。読んだからには書かねば。むしろ、書いたからには最期に投稿せねば..なんですが。)
こういった経験を通じてやっと、efと言うアニメの8話末に何だか生温い感情を抱く事が可能になるのです。

『けんじゃはいった。「たいせつなのはつたわるまであきらめないことです」』
skerenmiさんが、「酒でも飲みながら」と言ってるように、会って、紙に図とか書きながら喋ればすぐですよね。 「相手の言っている事には、正しいか、その人の経験に基づいた思い違いに起因する、原因の解明可能な誤解が存在するはずだ。」との信念を持ちつづけなければ、えーと..."本気"...じゃなくて..."手加減"は無理です。

『あそびにんはいった。「竜から落ちても落馬なの?」』